―塩も油もいらない、素材が教えてくれること―
東京・神泉で「ぽつら ぽつら」「うつら うつら」を営み、両店でミシュラン・ビブグルマンを獲得した料理人・米山有(ヨネヤマ タモツ)氏が綴るコラムです。京野菜を前にしたとき、料理人が選ぶべき「引き算」という仕事について語ります。
何もしない美味しさとの出会い
子どもの頃、畑で真っ赤に実ったトマトを、もいだその場でかじった記憶はありませんか?
青臭さと、果汁の甘酸っぱさと、口の中いっぱいに広がる夏の香り。何の味つけもしていないのに、「こんなに美味しいんだ」と驚きとともに笑ってしまった——私にとって、料理の原点はそんな体験でした。
それから年月が経ち、料理人になって、ようやく思い出すようになったのです。
「ああ、あのときの味は“何もしない美味しさ”だったんだな」と。
賀茂なすが教えてくれること
京野菜というものには、まさにその“何もしない美味しさ”があります。
たとえば賀茂なす。輪切りにして、油を敷かずに網に乗せ、じっくり炭火で焼いていくと、皮の中で果肉がふっくらと膨らみ、とろけるようにやわらかくなります。
ナイフを入れると、じゅわっと滲む果汁。ひと口で、まるで上質なステーキのような旨味と香ばしさを感じさせてくれる。何もかけず、塩すら不要です。ただただ、素材の甘みと火の力があればいい。
そんなとき、私はふと手を止めたくなるのです。
「これ以上、何かを足してしまってはいけない」と。
技術ではなく引き算の勇気
料理の技術というものは、積み重ねれば積み重ねるほど「何かを足す方向」に進みがちです。旨味を重ね、香りを重ね、食感を重ねて、一皿を豊かにしていく。
でも、京野菜と向き合っていると、逆に「削ぎ落としていく勇気」が必要になる。調味料も、手間も、飾りも、どこまで減らせるか。それを試されているような気さえするのです。
万願寺とうがらしなら、真夏の日に穫れたものを、強火でさっと焼いて表面を軽く焦がすだけでいい。そこに柚子をひと削り。それだけで一皿が完結する。余計なものを足さないことが、かえって料理に深みを与えてくれるのです。
それは、技術を捨てることではありません。むしろ、引き算こそが技術であり、経験の証だと思います。
九条ねぎに学ぶ“素材との対話”
たとえば九条ねぎを極弱火の湯でそっと炊くと、ぬめりの中に甘みと旨味が溶け出して、とろとろのスープになります。
ここに出汁を加えてしまえば、たしかに「料理」になるのかもしれない。
でも、私はあえて加えません。
素材が本来持っている味を引き出すこと。
そのまま受けとめること。
これは技術以上に難しく、料理人としての“姿勢”を問われる仕事です。
料理というのは、素材と対話をする営みだと思います。
「今日は、どう使われたいか」「どういう風に味わってもらいたいか」——そんな風に問いかけていると、不思議と余計な調味は消えていくのです。
引き算は素材への敬意
“引き算”というと、時に手抜きに聞こえるかもしれません。
でも、私は声を大にして言いたいのです。
「引き算」は、素材への最高の敬意です。
料理人が腕をふるうのではなく、素材に語らせる。
京野菜のような、力のある野菜たちは、その静かな語り口を確かに持っています。
だから私は、今日も余計な手を加えないように、ただ静かに火に向かい、野菜の声を聴いているのです。
